日本の戦線が後退する1943年以降は
日本の戦線が後退する1943年以降は、撤退できないで孤立した部隊が自らの戦いを終わらせるため、しばしば「バンザイ突撃」(万歳と叫びながら突撃することから米兵が名付けた)のような決死的な肉弾攻撃を実行した。神風特別攻撃隊や対戦車肉弾攻撃のように作戦そのものが未帰還や自爆を前提としていたものもあり、これらを米軍は「自殺攻撃(Suicide Attack)」と名付けた。また、激戦地となった沖縄県や、満洲などの外地では、軍人のみならず多くの市民が集団自決に追い込まれており、その数は現在でも不明である。
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敗戦時や大戦最末期には、軍の上層部の人間から、この責任を取るため自決を選んだ人間が多く出た。有名な「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」との遺書を残し介錯無しで割腹自決した陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将や、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電し拳銃自決した大田実海軍中将らが後世に名を残す一方、本来なら責任(自決)を取るべきところ、自決せずに自分だけ生きながらえた花谷正や牟田口廉也、福留繁などが部下や世間からの批判にさらされた。戦陣訓の制定者である東條英機は自決に失敗し、世論の嘲笑を浴びた。また、安達二十三陸軍中将や今村均陸軍大将の様に、戦後連合軍により戦犯に指定され収容所にて服役中に自決、自決未遂した者も多い。その他、太平洋戦争開戦時の海軍大臣だった嶋田繁太郎は「ポツダム宣言を忠実に履行せよとの聖旨に沿う為」自決を見合わせている。